サンキューマザー YOKKOi

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久しぶりのブログです。
私事ですが(当然この場所はそれで良いのだけど)
昨年の11月に母が亡くなり、早いもんで49日も終え、
自宅に全く似合わないww仏壇も設置出来た。
正直ここまでの日数を重ね、俺の宇宙最大の味方が突然この世から姿を消した事に、
まだ何も把握出来ていないのが実の所である。

何も分かってはいないが、寂しさと喪失感だけは毎日ハッキリと認識する。
かと行って歩く膝は折れていない(時に折れそうになるが)

自分は今日も先へ進む道を模索しもがいている。
母が亡くなってからそれは更に力をましているように思う。

母が亡くなって感じたのだが、そもそも愛って言う人類最大の光は、
瞬発性はなく、貯蓄なんだなと思う。
母は生前友達や血縁者を本当に大切にした。その為か母は近所のカリスマ、
血縁者の癒しだった。
母の家にはいつも誰かが遊びに来ていた。

その母が突然亡くなって、通夜に来てくれた母の友達たち、親戚たちのテンパリ具合を見て、
母は本当に愛を育んでいたのだと痛感した。
どこかのあるおばさんは俺に『明日からどこに遊びに行けばいいの?』と俺の目の前で本気で泣いてくれた。

愛とは貯蓄で、本当に華開く時は、本人がいなくなり、悲しみと同席して、
皆に大切な事を教えてくれ、一人の人間の生き様を考えさせられ、
心に沢山のプレゼントをくれる。
お金を払ったらこれが手に入るような瞬発性はないが、
この貯蓄は凄い力を持っている。

俺が寂しさと喪失感のまっただ中でも歩けるのは母の生き様のお陰だ。

彼女は俺に命と身体を与え、死してもなお膨大な物を与え続けてくれる。

俺達はこの社会で生きる中、どうしても損得感情に捕われる。
でも本当に大切な物ってなんなんだろうか。。
何かになりたいと思う夢は人に何を与えてくれるんだろうか。。
目指すゴールとは何なんだろうか。。それは何処にあるんだろうか。。

俺は母の死によって、まるで思春期のように今人生に沢山の疑問が産まれている。
全ての価値観がひっくりかえるような。。
明日自分は何を考えるのかが読めない。だけど母は死して、
また俺を産んでくれたのだと思う。

生前より違った母との近さを感じる。

俺はもう良い歳だが、どうせ歌うならこの経験を歌いたい。
俺の方法で。
この身体が朽ちるまで歌いたい。
なんせ彼女の産んだ子なのだから。

最後に、母が倒れてから俺を支えてくれた皆様、本当にありがとう。

ありがとう。

写真はまだ俺が産まれていない、俺の知らない母であるが、
俺の最も知る綺麗な母の優しい横顔。

この気持ちを具体的に公共の場で語るのはこれで最後にします。

後はLIVEを見て欲しい。
PARTYしようぜ。
そして生きようぜ。











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